第十二話 … ナホの五人の子供たち Ⅱ
昭和二十年代、ミヨは夫に、不運な母・ナホの面倒も見てもらったうえ、前夫との間にでき、すぐに父を失った子の後楯にもなっていました。そして昭和二十六年には、埼玉と東京の県境にある荒川沿いに、戸田競艇場の設立が内定したこともあり、五州園とは別に、北浦和にも居を構えることになりました。母も連れて、息子の孝治も、石川の家の近くに染物屋を開業していました。 そして二年後、ミヨは、私が育てられている廣森の家とは、五分足らずの所にある屋敷で、石川だけではなく、母も子も残して、波乱に満ちた人生を終えました。享年五十六歳。私の養子の筋立をつくり、身近で私を見守ってくれた、私に伯母と名乗ることもないままに逝ってしまった、私には大切な人でもあったのです。 そのミヨが、最近、私に、思わぬ置き土産を残してくれました。嫁いだ先の長谷川の家も、義父・金蔵の代で、「家」としては途絶えてしまいました。その金蔵は矍鑠としていたとき、「幕末三舟」の一人である、高橋泥舟を師と仰ぎ、「書」の道を究めようと研鑽に励んでいたのです。泥舟は槍術の達人としても有名で、勝海舟、山岡鉄舟とともに、時代の変革に力を注いだ男でもあります。 過日、偶然に、ミヨの手に残されていた、泥舟が弟子の金蔵に宛てて書いた書簡と葉書が、私の手元に届けられました。これ等は、ミヨが亡くなり、そのときに夫の石川が、遺品として妹の孝に委ね、孝亡き後は、次女の宮越敏子の手に渡り、それが最近になり、私の元に届いたというわけです。 もともとは金蔵の受けた書簡です。内容にそれなりの社会性や、足利に触れてあるものであれば、足利学校の図書館で丁寧に保管し、役立ててもらえたら、金蔵も、ミヨも孝も納得してくれるのでは、と考えています。そんな思いもあり、今、泥舟の資料も保管もしている足利学校の図書館で、その文面を解読して頂いています。 そんな折、足利の長太三氏から、手紙と新聞のコピーを頂きました。泥舟の血筋を引く方が、桐生にいて、色紙ほどの大きさの書を三点お持ちになっていて、やはり文面は読めないと、新聞に記されていました。どうやら、時代というものは、大切な人だけではなく、大切な言葉という文化まで、持ち去ってしまうもののようです。 はかなくもあり、それ故に、いとおしくもありとでもいうべきなのでしょうか…いずれにしても、もう暫くは、ミヨや孝を偲ぶために、私の手元に届いた泥舟の認めた三点の書を、酒でも飲みながらそっと眺めていたいと思います。 ( 写真 … 泥舟が金蔵に宛てた書簡の一部 )
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