第十八話 … 植竹豊先生と智恵子
三十年余前、初めて私が杉山の墓を見て不思議に思ったのは、同じ墓石に、智恵子の名前が刻んであったことです。本来であれば、杉本(本名・吉田好正)の墓に入るべき人なのにということです。後々、その経緯を知ることになるのですが、それは小説だったり、智恵子の手記であったり、と、活字を通してのことばかりでした。 なくなった伯母の孝も、私に、稀に父のことは聞かせても、智恵このことについては、ほとんどなにも語ってはくれませんでした。それが、父と杉山のことを調べてみようと思い立ち、あるとき、大橋町にいる従兄から、父の同級生がお元気でいらっしゃるということを聞き、早速にお訪ねしたのが植竹豊先生でした。 当然のこととして、植竹先生は、二歳年上の智恵子のことも、よくご記憶されていて、その印象をお聞かせくださったのです。このときの私は、初めて直接、智恵子とあっている方から、智恵子の話を伺うことが出来たのです。 といっても、私はその三十年前に、杉本の弟である、吉田好尚さんにお目にかかったことがありますが、この時期の私は、国を騒がせた、脱国の事件の詳細も知らず、智恵子と良吉との関係もよく聞かされていないため、ただ一方的に話しを聞かされた想いしかなく、最近になるまで、好尚さんの悲嘆に、気付くこともありませんでした。ということで、私にとっては、植竹先生から聞かされた智恵子の話が、唯一の、生き証人からの話でもあったわけです。 智恵子は「お澄ましさんの、小生意気な娘で、僕達には鼻も引っ掛けてくれなかった」というのが、植竹先生の、子供心に残った智恵子像でした。さらに四つ年上の泰の方が、子供達にも人気があったそうで、何かにつけ泰の方を慕っていたそうです。 それでも、近所でも評判の美人で、後々、東京に出て、例の、岡田嘉子と杉本良吉の事件の時には、村中の噂になり、「チーちゃんが可哀相だということで、いつまでも語り継がれることになった」とも教えてくれました。そして、先生が中学生になったころは、「猿田から移った本城の家で、足利の郵便局に勤めていて、下宿屋の手伝いもしていた」と語ってくれました。当時の中学校の生徒や、先生たちの間ではマドンナと噂をされていたそうです。 植竹先生にとっても、九十年も昔の話、どちらかというと、智恵子の話しをしているときより、泰の話をしている先生の顔のほうが、私に若々しく感じられたのは、先生には、泰の方がお気に入りだったのかも知れない、と、ふっと感じられたのです。 ( 写真 智恵子…Ⅰ )
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