第二十話 … 智恵子の友人達たち
元気だったころの智恵子がモデルの写真では、智恵子は決まったように帽子をかぶっています。帽子好きだったのかと思われるくらいに、モボとかモガとか言われた時代と、時代が一致しているのかどうかはともかく、写真の智恵子は必ず帽子をかぶっていました。 作家・佐多稲子は、その作品の中に、しばしば智恵子を登場させています。いい女の典型として描いています。自立した女としても書いています。それを政治的な色合いが同じ故の、身贔屓な描写とも思いませんが、私からしてみれば、知らない伯母ではあるけれど、少しきれいに書かかれすぎでは、と、思うこともあります。 それ以上なのが女流作家の若林つやです。つやに至っては、宝塚のファンが、舞台の女優に憧れる視線で、智恵子を描いているのです。若林つやといえば、小林多喜二が彼女と結婚したい、と、共産党の幹部に申し入れをした相手の女性です。「彼女は拷問にあえば、すぐにゲロしてしまう」と、党からは結婚を許されなかった相手です。つやは、自作『不二うばら』のなかでは、憧れの智恵子を、うっとりと見詰めている、そんな自分を描いてもいます。 杉本と智恵子と、共産党のことについて考え合わせてみたとき、党の幹部からは杉本に対して、智恵子のことで忠告がされた旨のことは、調べた資料の中には記されてはいませんでした。 このころの智恵子の親しい友人に、宮本百合子がいました。何かにつけて、佐多稲子と三人は会っていたようです。百合子からは、樋口一葉についての指導を受けてもいました。そして、時に英樹も、稲子や百合子やその仲間達と一緒に、ハイキングに誘われてもいました。英樹が急速に共産思想に傾いていった時期です。 宮本顕治と宮本百合子の往復書簡にも見られるように、佐多稲子も含めたプロレタリア文学を旨としている、党の関係者達と、杉本と智恵子と英樹の関係は、円滑に運ばれていたと思われます。 再び、もしという言葉に戻るなら、この世のことは全てが糾える縄。糸が一本違っても、織りあがる布が違ってしまうようです。智恵子が、足利という生まれ故郷を出なければ、自分だけでなく、弟の人生までもが変っていたに違いありません。 義弟・吉田好尚の自伝、『素絹』に記されている。「姉の葬儀の日、姉の親しい友人が四・五人来てくれた」宮本さん、佐多さん、それに婦人公論の村田さんの名も記されていた。だが、本人は葬儀に行っていると、はっきり明記していた、若林さんの名はなぜか削られていました。 ( 写真 智恵子Ⅱ …撮影者は杉本と思われる)
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