第二十一話 … 智恵子の空白の時間
智恵子の生まれた家は、足利の郊外にかかる福猿橋の少し上にあたる、渡良瀬の堤の内側にありました。小学校は家の近くにあった分校に三年まで通い、短い期間かとは思いますが、本校でもある八柵の小学校にも通っていた時期もあったはずです。その後、杉山の家族は本城にある、足利を代表する立志伝中の方のお一人でもある、横田千之助氏の家を借りることになり、そこから足利高等小学校(現・柳原小学校)を卒業し、学びの時を終えています。 空白の時間というと、少々大げさになりますが、この学校を卒業した大正十二年から、上京をして杉本良吉と知り合うことになる昭和二年までの、約四年間の智恵子の正確な資料が乏しいのです。弟の英樹が通う中学校での「マドンナ」説、キリスト教の教会に通い賛美歌隊に入っていた話、足利郵便局に勤務していたということ、その程度の、断片的な資料しか手に入らなかったのです。 そうであれば、私としては伯母・智恵子のそのころを、独りで勝手に想像するしかないのです。…先にあった父の死はともかく、祖父の死は理解できる年令になっていたとすれば、智恵子には家の傾きは、肌でうっすらと感じられていたはずです。一つ年が重なるごとに、その貧しさには重さも加わってきていたはずです。 上の姉の華やかな婚礼に儀に、胸をときめかせもしていたでしょう。二番目の姉の医者になる夢も、何度も聞かされたことでしょう。でも、渡良瀬を襲った台風と、父と祖父のたて続けの死が、智恵子に現実と向き合うことを当然しいてきたに違いありません。三番目の姉は、足利市内にある裁縫学校に通うことになりました。が、智恵子は高等小学校を卒業すると、社会人として足利の郵便局に勤務することになったのです。 日曜日には、市内にある教会でのミサに通い、賛美歌隊の一員となることにより英語を学ぶことにもなりました。このころに、智恵子の心をときめかすような異性の友人はまだいなかったのでしょうか?このときの経験が、後に杉本良吉と知り合った時に、二人の愛を深めるための大きな役割を果たしてもいたのです。 杉本は北海道に遊学していた時期、ある修道院で洗礼をうけて、修道士の道を目指してもいたのです。聖書の中の言葉が、二人を急速に結び付けていたのです。二人が早くに、父親を失っていたことも、二人の愛のための大切な要素だったのかも知れません。智恵子の空白の時間といいましたが、時間は、前からやって来て、あとにつながっています。後に触れるつもりでおりますが、岡田嘉子にも「空白の十年」という、大きな謎が今も残されていたのです。 ( 写真 東京・中村宅で、智恵子・英樹・姪の康子)
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