第五話 … 父が残してくれたもの
私には実父・杉山英樹の記憶が全くありません。姿・形や温もりさえ知りません。が、父は、二つのものを、私に残してくれました。 一つは、日付の確かめられない、私宛への為書きです。昭和十七年一月二十八日発行とされている、代表作ともされている『バルザックの世界』の、表紙を開けた頁に記されたものです。書かれたのは、父が亡くなる、昭和二十一年四月一日までの間のことです。 「 直樹へ これはお父さんが青年時代の記念だ。二十八から九の年にかけて、この本を書いた。大菩薩峠の山の宿や、笛吹川のほとりや、八郎潟近くの寒風山のふもとや又浜名湖べんてん島の宿屋でも書いた。お前が大きくなって読んでくれる日を想い之を認める。 英樹 」 私がこの本を手渡されたのは、三十の半ばのことです。伯母の一人からです。これを初めて見て思ったのは、貧しかったと聞かされていた父のこと、本を書くために、あちこち旅行に行けたのだろうかという素朴な疑問でした。それに経済的な理由だけではなく、晩年の英樹は病弱だったとも、私は聞かされていたのです。 その後近年に至り、何人かの作家の、英樹に関しての文章を知るにつれて、まんざら嘘でもなかろうという気にもなり、現在では有り得たことと得心もしています。英樹の三作目になるルポルタージュの、『北方の窓』を読んだことも、その裏付になっています。 過日、四半世紀ぶりに私は、ある事情があり会うことが出来なかった、鎌倉に住む八十八になった従姉の、宮越敏子と再会いたしました。敏子はナホの次女・孝の娘です。その敏子が、思いもかけない昔話を、私に聞かせてくれたのです。 それが、父が子に残してくれた、二つ目のものです。自らの死も予感していた英樹が、辞世の句とも思えるような、歌とメモを、私のために作ったという、大きな模型飛行機の翼に、書き残していたというのです。敏子二十二歳、私が二才の時のことです 「 昭和二十年九月 B52の翼 わが厚木飛行場の 草にあふれたり 悲しい哉 この日。 溢れくる 涙抑えて 識す目に あはれ秋風 野ずらに すみたり 」 私が血をわたる経験をしてから六十年余、私が血をわたったがために、父に辞世の句が用意されていたとは思いませんでした。この模型の飛行機は、私に渡ることはありませんでした。
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